セカンドハラスメントとは、差別構造、暴力の中でも可視化しにくいものですが、最も強大な力をもっています。

この世の中に完璧に公平な存在はあるでしょうか。
誰が公平にさばくことができますか。
そういった人はいないです。
傍観者というのは、作られた架空の人たちです。

一次被害の当事者とそうでない人とわかれますが、
二次被害はそのことを知ったり関わったりしたすべての人が
当事者です。

殺人事件や事故の報道があるたびに自分のこととしてとらえる人は少ないかもしれません。
日々そういった報道に触れ続けていると、
自分が周りの世界を観客になったように見ているという
錯覚に陥りますが、大きな問題につながる火種はそこかしこにころがり、自分に無関係なことばかりでもありません。

傍観者は、今は安全だから生贄にならなかった自分のことを守りたいという思いでしょう。
そういった被害に自分は合わない、あっても我慢する。
それはその人の自由ですが、声を上げる人を抑圧することは加害でしかありません。
嫌な目にあい弱っている単独の人間の声を握りつぶすのはたやすいこと、抑圧する行為自体、無関心でいれば簡単にできます。
声を上げた被害者は少数または単独だから目立ちますし、
目障りな人もいるでしょう。
傍観者は意識的でも、そうでなくても結果的に、
邪魔なハエをおっぱらう気軽さで加害行為に加わっています。
そういった簡単かつ効果的な無意識の暴力構造を支える行為を、
今こそ見直す時ではないでしょうか。

人を弱らせるのに効果があり、加害者も罪の意識を薄くするやり方は、集団で一斉に楽しみ、
ある特定の人だけをその輪に入れないという
仲間外れ状態を作ることです。
祭りや祝祭空間、風習などで行われています。
理論よりも個人・集団の欲求そのものを優先させた人間の暴力的な習性・因習の暴力構造をはっきり認識し、
傍観者≒セカンドハラッサー≒二次被害加害者は罪の意識を持ってほしいです。

祭りはこの場合、「面倒」「無関心」「権力におびえる」という共通意識でしょうか。
つらい人が出る因習を放置し、
また被害にあっていないからといって、
被害者に対して鈍感なまま、救済せず放置していいのでしょうか。暴力がおこり、被害者の苦しみに対して何か行うというのは
一人一人の責任なのです。
組織として取り組むのは面倒だから、当事者同士で解決しろというのは、個人が分断されているからでしょうか。
それなら苦しい目にあったときに人は狭い枠へ追いやられることになります。
個人のエンパワメントにとって大変厳しい言葉です。
個人だけでどうにかする、それができればとっくにやっており、そもそも問題にもならず、苦しみもしなかったかもしれません。
事態が一層深刻になる場合もあるでしょう。
そうなった後では遅いです。

暴力行為を告発するというのは、その人の表現でもありますが、
暴力をやめてほしいと集団に理論でもって要請しているのです。
単なる表現ではありません。表現なら受け取るほうの責任で
内向きに処理すればいいですが、暴力行為をやめる、
暴力のおこらない環境を作りたいという個人の要求に
何らかの対応をせず無視するのであれば、
すべて当事者個人の責任、我慢に負担がかかってきます。
それは被害当事者の立場からするとフェアなこととは思えないです。
最終的に、たくさんの人が苦しむ集団を作ることにつながります。個人の苦しみをシェアして今後の対策につなげる、
というのは、組織にとって損害を与えるような、
ひどいことでしょうか。
私はそうは思いません。その改善を必要としている人がおり、
また安全な場を作ることができます。
個人で何もできない人は、集団でも何もできないという人もいました。傍観者集団が、みんなそう思っているから大丈夫、
というのは案外もろいものではないかと思います。
被害者になったときに、何の対策も講じなかったことを悔やみ、
他の被害者の苦しみをやっと知るということにならないことを祈ります。自分が経験していないことは、
存在しないことではないはずで、人間には想像力があります。
それのほんのちょっとでも、被害者の立場へ向けることは、
難しいことでしょうか。
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